再起の炎〜薔薇の女王は炎と踊る〜

酷く、身体が重く感じた。
時計塔を出現してしまってから、もう一ヶ月が経とうとしている。
彼らがレテを倒すたび、記憶が少しずつ戻るたびに、心のどこかで紅羽は恐怖していた。

『いつか、決定的な記憶が出てしまうかもしれない。いつか、あの人が生徒に刃を向ける瞬間を――』

そこまで考えた瞬間、自分がいかに恐ろしい思考をしているかに気付いて慌てて首を横に振る。
ありえない。ありえないはずだ。ありえてほしくない。
記憶が無いというのは想像以上に厄介だ。何せ、あらゆる可能性が同確率で存在するのだから。

「これが……」

誰もいない生徒会室で、紅羽は自らをかき抱く。普段の彼女からは想像もつかないほど強く自らの腕を掴み、瞳を強く閉じた紅羽は叫ぶ。

「この苦しみが続くのなら、いっそ――っ!」

『私は――信じたい、です』

それは突然の事だった。

「誠……さん……?」

誰もいないはずの生徒会室に響いた声に、紅羽は呆然と顔を上げる。
今の声は天ケ瀬誠、この聖フィアナの生徒のものだ。

「まさか、視界共有――いえ、今は誰とも……? なら、今のは――」

再び紅羽の言葉が止まる。瞳に映っているのは、眼前に浮く小さな“鍵”。
夢世界の中で重力を無視して浮く小さな鍵。吸い寄せられるように伸ばされた指先で触れると、砂糖菓子の様に崩れて光の粒子に変わった。

『ボクはね、「信じられないなら罰せよ」だから。信じられないなら、全部全部、切り捨てるから』

声は、その光の粒子から聞こえていた。
確か、七夜音穏という共学生徒の声だ。聖フィアナにいる彼の妹から、話を聞いた事がある。

「これは……」

まるで紅羽が存在に気付いたのを皮切りにしたかのように、鍵は次々と空間から溶け出る様に出現する。
それらは彼女に降り注ぎ、触れた瞬間光に変わる。
光と音の雨。そこにあるのは、人々の想いだった。

「知り合いが悲しい顔をするというのは、好きではありませんから」 

織笠夜清は言った。無実を信じるというよりは、ただ大切な人に笑っていて欲しいという願いをこめて。

「気は進まない、けど、どうして消えた記憶の中に噂が入ってたのか、説明、出来ない」 

雅城禮湖は言った。盲信など本当に大切なものを見落とす毒でしかないと。

「あぁ――」

細く長い息を、紅羽はゆっくりと吐きだした。そこには先程までの追いつめられた色は無い。

「あぁ、私は、何て思い違いをしていたのでしょう」

信じると嘯いて目を背け、疑いたくないと喚いて耳を閉ざした。
朱音を、明松財団を信じるか信じないかの話ではない。
そんなものは、たかだか個人の感情だ。
本当に大切なものを、橘紅羽は忘れていた。

「何て浅はか、何て愚考。えぇ、認めましょう。私は、何一つ分かっていなかった」

おもむろに立ち上がり、時計塔の見える窓を勢いよく開け放つ。中にいる生徒の気配を辿り、最もレテに、そして時計塔中央部に近い生徒に意識を繋げた。

『会長さん――?』
「鬼桜さん、それに皆様、本当に申し訳ありませんでした。私の未熟さで貴女方には辛い思いをさせてしまった。この愚は、これからの行いを以て返上いたしましょう」

戸惑う様な秋野に離脱を指示し、反応が消えたのを確認した紅羽は右手を時計塔にむけて差し出した。
手の甲を上に向け、意識を集中すれば聖フィアナの校章が手の甲の上、そして足元に出現する。

「私は全てを『疑い』、前へ進もうとする貴女方を『信じ』ましょう。たとえ、この身に永遠の責め苦が待っていようとも――」

脈打つように足元の紋様が光を放つ。紅羽を中心に風が湧き起こり、艶やかな髪を舞い上げる。

「聖フィアナ女学院第30代生徒会長、橘紅羽。この意志と魂を糧に、我はここに請い願わん」

一言彼女が紡ぐごとに、紋様が輝きを増す。やがて光は炎に変わり、風に乗って紅羽の周囲を囲う。

「汝は神に背いた者。人を愛し、信じ、託した者。汝の力を私は望む」

盲信はしないが、生徒の意志は信じる。
紅羽はいつも通りの優雅な笑みを――今までよりも遥かに強い意志と覚悟の宿る笑みを浮かべた。

「『プロメテウス』――汝の光と闇を、私に」

轟、と炎風が吹き荒れた。窓枠を溶かして突きぬけた炎は真っすぐに時計塔に向かい、瞬く間に包み込んだ。
融解、崩壊。
どんな攻撃も武器も効かなかった外壁は氷の様に溶け崩れ、その姿を消していく。

『ごめんね――っ』

再び、声が聴こえた。だが、先程とは違う。

『ごめん、ごめんね。あたし達だけで終わらせるつもりだったのに、結局あなたに来させちゃった――』

これは記憶だ。

『でも、託さなきゃいけない。途絶えたら、全て消えちゃうから。それだけは、絶対に――』

失われた7日間で、崩壊した世界の記憶。
よく見えない。恐らく酷く視界が悪いか、意識が朦朧としているかのどちらかなのだろう。

『だからお願い』

ノイズ混じりの視界の向こうで、朱音の声が言う。最後の言葉だけを、紅羽は先程取り戻していた。
だから、記憶に合わせて紅羽も口を開く。

「『この呪いを、受け取って』」

途切れた記憶と戻る視界。その向こうで、時計塔は完全に姿を消した。


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