虚実の杜〜自由の踊り手は夢に沈む〜

空が高くなり、朝夜の風が少しずつ冷えていくのを感じる。
宮下遥海が生徒会室の扉を開けると、弓弦がちょうどカレンダーを変えている所だった。
カレンダーに書かれている日付は10月1日。

「もう9カ月経つんですね。失われた7日間から」
「あぁ、月日が経つのは早いものよ」
「何かわかった事とか無いんですか? 結構記憶も集まってきてると思うんですけど」

クラスで集めた書類を弓弦に渡しながら遥海が問うと、弓弦は困ったような笑みを浮かべる。

「そうじゃのう……。生憎肝心な部分だけ思い出せぬ」
「肝心な部分以外は思いだしてるの?」

凛とした声は入り口からだった。壁に背を預けた天勝寺 伽藍は整った眉を寄せ、真っ向から弓弦を見る。

「今年に入ってからレテの異常発生、女子校や男子校の異変、転入生、おかしなことばかり起こってる。でも、私達はそれについて何も知らされてない」

だが、会長達は別じゃないのか、と伽藍は言う。止めろ、壊せ、手に入れろ。どんな指示を出すにしても、それが何なのかを知らなければ無理ではないだろうか。

「私達は会長達の駒じゃない。知ってる事があるなら話したほうが良いんじゃ――」
「伽藍よ」

作業の手を止めた弓弦の真摯な声音に、思わず伽藍は言葉を止めた。

「我も現状を良しと思っていないし、真実を知りたいと思っておる。その上で、語れる事は何も無い、と言っておるのじゃ」
「じゃあ、せめてうちも他の学校みたいに上級特権……?とか解放できないんですか」

久瀬比奈 轍が軽く手を上げてそう言うと、柳霧はくすくすと笑った。

「さて……どうかのう」
「柳霧!」

はっきりしない態度に伽藍の苛立った声があがる。だがそれを制する様に最終下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

「さ、主らも疲れてるじゃろ。体育祭も近い。早く帰って休むことじゃ」

にこりといつも通りの読めない笑みを浮かべて弓弦は生徒達を退室させた。廊下に出て彼らが角を曲った事を見送ると、浮かんでいた笑みはスッと消える。

「知ってる事、か……」

誰にも聴こえないほど微かな声で弓弦は言う。

「皐月院も、聖フィアナも、抱えているのは同じ。だが、我らは――」
「そこまでだ」

背後から突如かけられた声。同時に、とん、と背を押された様な衝撃。
あまりの不意打ちに痛みすらなかった。

「あ……」

おかしなものだ。人は、予測を越えた事態だと思ったほど声が出ないらしい。
じわりと背後に何かが滲む感覚。弓弦の赤い羽織りに、より濃い紅が広がっていく。
呆けた目で首だけ後ろに向けると、黒に白い筋の混ざる髪。

「隠……国、守」

転入生達と同じ時期に姿を現した、どこにも属さない少年。散歩をしているかのように、何でもない表情を浮かべたその手には、小型ナイフが握られていた。

「お、ぬし――何、を」
「しょうがないやん? あいつがあんたの記憶が邪魔やってゆぅんやから」

笑みを含んだ様な声は前から聴こえた。好戦的な光を宿した少年、青垣 まりあ。

「あい、つ……?」

痛みが全身に廻り膝をつきながら弓弦が絞る様な声で問うと、まりあはニヤリと口端を吊り上げた。獣の様な鋭い八重歯が姿を見せる。

「そうそう。俺だってあいつの言う事は聞きたくないけどさ〜。なぁ?」

同意を求めたのは彼と同じように歩いてきた少女、時雨 透理だ。快活で人懐っこい少女だったと記憶していたが、目の前に経つ透理は人形のように無表情で淡々としていた。

「うん。やりたくないけど、でもあの人も嫌だっていうから。あの人の願いは叶えないと」

血が止まらない。脈動が脳を揺らし、意識が飛びそうになるのを必死に保ちながら、弓弦は傷口を手で押さえつける。
振り向いた先に背後に国守の姿は無い。既に去った後の様だ。

「さっさと諦めろ。所詮お前や前の会長のやってきた事も、生徒の足掻きも全て無駄だ」

必死に足掻く弓弦を嘲笑う様に、宵嵐は言い放つ。

「無駄死にだ」
「――控えろ下郎」

一言。

「――っ?!」

宵嵐は咄嗟に飛び退き弓弦と距離を取った。だがその顔は何故自分が飛び退いたかも分からないという表情。
意識よりも先に本能が撤退を訴えるほど、弓弦の言葉は鋭く重かった。

「我をいくら愚弄するのも構わん。逃げも隠れもしないゆえ、好きにせよ。だがの、」

どこにその体力があるのか。服と羽織に染みが広がる中、弓弦は立ち上がって転入生達を見据えた。

「我が夢路第一の生徒と矢纏会長を愚弄する事だけは許さぬ。彼らの、あの人の魂は、お主らに嘲られるほど安くは無い」

その瞳には、彼らしからぬ明確な怒りが見て取れた。首に刃を当てられた様な圧迫感に気押されながら、その圧力を振り払う様に透理は大きな声をあげる。

「そんな身体で何が出来るって言うの? 夢世界じゃ最強でも、現実のあなたはただの人間なんだよ!」
「そうじゃなぁ。だからお主の言う通り――」

クスリと笑い、弓弦は扇子を軽く開いて前に差しだした。

「夢世界でケリをつけてやろう」

パンッと扇子が閉じる軽い音。同時に周囲の景色が夕暮れからより濃い黄昏に、磨かれた床はコンクリートむき出しの古びた姿に変わる。

「嘘――。ボロボロのくせに全員夢世界に引き寄せたっていうんか――?!」

まりあが驚愕を隠せないというように叫ぶ。
弓弦はそれに答える事無く、ゆっくり息を吸ったかと思うと一息に紡ぎ始めた。

「巡れ、廻れ。過去と未来、神と人、夢と現の境に眠る人。我が身は既に現に非ず、我が心は未だ虚に非ず」

一言、一言が糸のように空間に満ち、織り上げられていく。辺りが徐々に霧に包まれ、何かが組みかえられようとしているのが転入生達にも分かった。

「千の記憶は千の夢。緋の鳥居は神の境。第45代夢路第一生徒会長、柳霧弓弦は願う――」

静かな声で弓弦は告げる。

「展開せよ“虚実の杜”」

一瞬だった。突如弓弦を中心に四方へ強風が駆け抜けたかと思うと、廃墟の校舎は何処にも無く、幾千、幾万の鳥居と灯りが連なる空間へと変わっていた。

「記憶は欲しくばくれてやろう。ただし、取れればの話じゃが、のう」

幻想的な光景の中心に立つ弓弦は、挑発的な笑みを浮かべた。

「我の記憶はここの“どこか”じゃ。探せるものなら探してみよ」

息が乱れ、冷たい汗が頬を伝い落ちる。それでも不遜な表情を彼は崩さない。
予想外の抵抗に形成を覆された宵嵐が苛立たしげに睨みつける。

「お前――」
「帰れ操り人形。言っておくが、主らが馬鹿にした生徒“特権者”達は手強いぞ?」

反論の暇を与えずに強制退去させ、一人夢世界に残った弓弦は表情を崩す。

「出来るのはここまでか――」

朦朧とする意識の中、思うのはこの後の事だ。

「後は、託すしか……。だが――」

あの記憶を見た時、彼らはどう思うのだろうか。
いつか知られるとずっと覚悟はしていた。早いか遅いかだけの違いだと。

「やはり、嫌われるかのう。まぁ、しょうがない……か」

あぁでも彼らといた日々は、あまりに楽し過ぎたから。
今さら嫌われてしまうのは、すこしだけ、ほんの少しだけ。

「さみ……しい、か、のぅ……」

その言葉を最後に、弓弦の意識は虚ろに消えた。

このページのトップへ