薔薇の女王は夢を慈しむー聖フィアナ女学院中学校・高校ー
ある者が尋ねた。「夢とは何か?」
橘紅羽はこう答えた。
「慈しむべきものですわ。古来より人は神や魔法を夢見て努力する事で、進歩したのですから」
だから、と彼女は言う。
だから、そんな夢を見る彼女たちを守りたいのだと。
ふわりと薔薇の香りを含む風が髪を揺らし、橘紅羽は小さく息を吐いた。
「今日はゆっくりお茶をする暇も無さそうですわね」
洗練された空気の少女だった。
白磁のように滑らかな肌に、完璧に整えられた肢体。
艶やかな光沢を放つふわりとした髪や皺一つない制服と、俗世から遠く離れた雰囲気をまとっていた。
その雰囲気も当然と言えば当然。紅羽は世界規模で様々な事業を展開しそのほとんどを成功させている大企業、タチバナコーポレーションの会長の一人娘だ。
幼いころから磨き上げられた上に立つ者としての教育が彼女の自信を裏付けし、揺るがない強さのある雰囲気を形作っていた。
そんな絵画の様に美しく整った顔立ちに悠然とした笑みを浮かべた紅羽は唇を開き、
「私の生徒を困らせる男と敵は、この世から原子も残さず消滅すればよろしいのに」
随分と物騒な事を口にした。
紅羽がいるのは夢路町にのみ存在する異世界『夢世界』の生徒会室だ。
周りに誰もいない生徒会室の中、豪奢な椅子に腰かけた紅羽は己の力――『特権』と呼ばれるそれを使って夢世界内で活動する生徒達に話しかける。
「環さん、大丈夫ですから落ち着いてくださいまし。そんなに怯えなくても怖い事は何も起こりませんわ。ねぇカミオさん?」
『ここでアタシにふるのかよ……』
香美緒の呆れたような声が紅羽の声に届く。生徒会長の特権で共有できるのは声と視界だけだが、今香美緒が「勘弁してくれ」という顔になってるであろう事は手に取る様に分かった。
だが分かった上で紅羽はしれっと言ってのける。
「カミオさんは優しい方ですもの。困ってる後輩をみすみす放ったりはいたしませんわ」
その台詞はお願いというより無言の圧力に近い。根負けしたらしきカミオが小さくため息をついて、己の召喚したマルコシアスに行き先変更の旨を告げる。
『……今回だけだからな』
そう言いながらも律儀に助けに行く彼女へ何か言おうかと口を開きかけた瞬間、別の絶叫が紅羽の脳裏に届いた。
『待って待ってマンゴーの群れは! マンゴーの群れだけは無理ー!」
何らかの精神攻撃を受けているのだろうか。迫りくる化け物、レテの群れが希にはマンゴーに見えているようで、悲鳴をあげながら全力で逃げていた。
その腕にかすり傷らしきものがあるのを共有した視界で見た紅羽は、己を叱咤する様に表情を陰らせる。
「私の落ち度ですわね。慈しむべき生徒に怪我をさせてしまうなんて……」
希と共有した視界でレテが再度彼女を襲おうと飛びかかるのが見えた。だがレテが彼女に触れるより早く紅羽は動いた。
椅子から立ちあがり、手の甲を上に向けた右手を前にかざすと校章と同じレリーフがその真上に現れる。淡い光を放ちながら廻るそれを一瞥し、共有した向こうで迫りくるレテを見据えた。
「ここは私の庭。我が名の元に庇護されし方たちを、乱入者ごときに触れさせると思いまして?」
言葉と共にレリーフが消滅し、その力が発動される。
聖フィアナ女学院生徒会長にのみ与えられた超広範囲干渉術――『女王の庭園』
希の足元のコンクリートを、壁を食い破る様に出現した茨が彼女の前でぐるりと渦を巻いて強固な盾と変わった。
飛びかかった何体かのレテは既に向きを変える事は出来ずに茨の盾へ突撃。棘にその身を貫かれて失速した。
次いで紅羽はかざした右手をくるりと返し、掌を上に向ける。
「来なさい、“セドゥーリウス『カルメン・ パスカーレ』”」
先程のレリーフを何倍も大きくしたものが今度は足元に出現。
吸い込まれる様に中央へ収束したレリーフは光の粒子に変わり、差しだした右手の上で形を変える。
現れたのは薔薇のつぼみ。
共有した視界の向こうで先程出現した茨に絡みつかれて悶えるレテの姿を見ながら、生徒に語りかける時とは一転冷ややかな視線と声音で紅羽は言った。
「鋭き茨の間から生まれ出る薔薇は、エヴァの罪を購い清めたマリアのよう。貴方達も穢れを購い薔薇に変わったらいかが?」
身体をしならせ脱出を図るレテだが、動けば動くほど茨は強くレテを締めあげる。
やがてレテの身体を完全に呑みこむと茨は消滅し、一輪の薔薇がぽとりとその場に落ちた。
全てのレテが薔薇に変わった事を確認すると、紅羽は共有する意識を瑠璃鳥と切りかえた。
「瑠璃鳥さん、その角を曲がった先にいる希さんの治療をお願いしてもよろしいかしら?」
『あ、はい! がんばりますね!』
即答した瑠璃鳥の素直さに優しく笑いながら、紅羽は再び椅子に腰かける。
手にのせた薔薇を消し、そっと瞳を閉じた彼女は囁くように呟いた。
「肝心な部分が分からないというのは、もどかしいものですわ……」
紅羽が言っているのは己の記憶。削り取られた7日間の記憶。
この学園の誰よりも真実に近い記憶を持っているはずなのに、それを思い出す事が出来ない苦しさは並大抵ではない。
「夢を胸に努力していた彼女たちを貶めるなど許されないこと。誰よりも輝いていた朱音様まで……」
無意識に握りこんでいた拳を解いて視線を窓に向けると、オレンジ色の空が瞳に映る。朝日でも夕日でもない奇妙な光。そもそもこの世界は特権者とレテ以外全てが止まったままだ。そしてそれは、自分も同じだと紅羽は思う。
「(失われた記憶に、“堕ちた”人々の事に囚われて、私もまた失われた7日間の中で動けずにいる――)」
それはおそらく誰もが大なり小なり抱えている事だろう。
何かが変わった日々の記憶が無く、心と身体がずれている感覚を覚えるのだ。
だが思考停止は何よりの愚だと知っている。だから紅羽は戦う事を、前に進む事を選んだ。
「貴女の事は私が救ってみせますわ。もちろん、聖フィアナの生徒達も橘の誇りにかけて、必ず」
決意を口にする紅羽の顔を、オレンジ色の光だけが静かに照らしていた。