自由の舞い手は開幕を告げるー夢路第一中学校・高校ー
その部屋はいつも微かな香の匂いが満ちていた。どこか緩やかな空気の渦巻く生徒会室で、浮世離れした弓弦会長が出迎える。扉を開けた小野寺忍の視界に広がっていたのは、そんな普段の光景ではなく香の匂いだけが残った主のいない生徒会室だった。
「柳霧会長どこ行ったんだろう……」
「会長ならしばらくいないぞ。三校会議とやらで」
忍の呟きに応えたのは、ちょうど生徒会室の前を通りかかった綾坂雪織だ。イヤホンを外し、生徒会室の扉の横を指差す。そこには『留守。緊急用件は携帯まで 会長』と何とも適当な張り紙がされていた。
「そういえばそんな事を言われた様な……三校会議って何なんでしょう?」
「さぁ。会長に聞いても『あっはっは、そう期待されてもアヤが好きそうな女の子の水着とぉくはせんぞ?残念じゃったのう』とか言われるだけだと思うけどな」
恐らく実際訊いて、そう答えられたのだろう。語る雪織の表情にはそこはかとない殺意が感じられた。
「そ、そうですか……」
これ以上聴くのは悪循環と判断したらしい忍はそれだけ答えて首を捻る。一体何をしに出かけたのだろう。
そんな二人の念が届いたのだろうか。校門を出た弓弦はふと何をするともなしに校舎の方を振り返った。
数秒立ち止まり、何も無い事を確認すると、弓弦は再び身体の向きを前へ戻す。
「気を張り過ぎ、というやつかのう」
大きく息を吐いて、再度足を前に踏み出す。一歩一歩学校から離れる弓弦。そこに浮かぶ表情はいつもと変わらない様に見える。だが、もし観察眼に優れた者がいれば彼の異常に気付いたかもしれない。
羽織りの下に隠れた右手は閉じた扇子を異常な程に固く握っている。
その姿は、まるで何かを堪えるかのようで。
「あら、会長さん。何だか辛そうに見えるけど大丈夫かしら?」
後方から声をかけられ、振り返ると少し心配そうな顔をした結城 兵真の姿があった。高身長でガタイが良い見た目に反し、良く言えば柔らかい、率直に言えば女っぽい喋り方の彼に、弓弦は飄々とした笑みを浮かべてみせる。
「夕日が強過ぎてそう見えるだけじゃ。我がそんなか弱き男子に見えるかえ?」
「か弱いとは正反対ね、って普段なら言ってあげるんだけどねぇ。『不在中に何かあったら〜』なんていつもなら言わない事言ってたものだから気にしちゃうわ」
頬に手を当ててそういう兵真の前で、弓弦は扇子を広げて自身の口元に当てる。
「そう気にする事ではないよ。万一と言っておいたじゃろ」
変わらぬように見えて、有無を言わさぬ眼光を宿した瞳。それに見据えられてそれ以上の言葉を呑みこんだ兵真は、ふと背中に衝撃を感じて振り向いた。
「っと、ごめんなさい。前を見てなくて」
ぶつかった鼻をさする七夜音穏。女でありながら男子制服を身にまとう彼女と、男でありながら心は女の兵真を交互に見て、弓弦はぽつりと呟く。
「主らが並ぶと足して2で割りたくなるのう」
「どういう意味よ!」
「ボクも会長さんの真意が訊きたいなぁ」
弓弦の言葉を聞いた兵真と音穏が一斉にそちらを向くが、その時既に弓弦の姿は無かった。
「逃げた……」
音穏の台詞も聞こえるはずが無く、中央区へ向かう道筋を進む弓弦は扇子をもてあそびながら思考に耽っていた。
「(恐らく、いくつか思い出した事があるのは二校も同じはず。その中に良い情報が有ればよいが――)」
中央区に辿りつき、弓弦は管理センターの地下へ続く階段を下りる。その奥に一つだけある重厚な扉をくぐれば、二人の学生が大きな楕円のテーブルを囲っていた。
「久しいのう、橘紅羽に彩月慧」
現れた弓弦に二人の視線が集まる。昨年までとは違う、敵意と相手を探る目。だがそれは弓弦も同じ事で、冷ややかな色を含んだ瞳で二人を一瞥した。
「さぁ始めようではないか。同じ境遇同士、同じ目的のために、の。」
その声が、三校会議開幕の合図となった。