真夏の蜃気楼〜孤高の皇帝が歩む途は〜
「正体不明の影に接触するな? はっ、随分と臆病な指示を出すんだな貴様」失望と苛立ちを含んだ鬼武院 國綱の声が生徒会室に響く。
気の弱い者なら泣き出しそうなその声を、眉ひとつ動かすことなく慧は受け止めた。
「必要な情報が揃うまでは動かないというだけだ。自殺が趣味というなら止めないが」
淡々と、だが厳と慧は告げる。
どちらかが意見を曲げるという様子も無く、一層張り詰めるかと思われた緊張感は、くすくすくすと無邪気な笑い声にかき消された。
「『夢世界で海辺を歩くと変な影に出会う』ですか〜。面白そうですね〜」
眼鏡をかけた九重薙はのんびりと笑う。一見無害そうな少年だが、隔てたガラスの奥には好戦的な内面が滲みでていた。
くすくすと笑う彼に苦言を呈したのは香野松葉だ。
「おい薙、面白そうですねはないだろ」
「え〜?そうかなぁ。まつば君が真面目すぎるだけじゃない〜?」
笑みを苦笑に変えて反論する薙に対して、松葉は呆れ半分といった調子で真面目に応えている。そんな様子を一瞥しながら、慧は事務処理の山に手を伸ばした。
「男子校学区に伸びる海岸で目撃が相次いでいるが、他の個所でもいくつか話は上がっている。とにかく寄らなければそれでいい。大人しく帰省でもしていろ」
「そういえば会長は帰るんですか?」
松葉の何気ない問いに、はんこを押していた慧の手が止まる。
無機質な瞳に微かな感情が奔った様な気がしたが、確かめる前に慧は作業を再開した。
「帰らない」
プリントを束ねてホチキスで留め、立っていた花表はやてに束を渡す。手渡された束数を数えたはやては、プリントから慧へ視線を上げた。
「帰らない……。帰れないではなくて?」
一瞬の視線の交差。だが、慧の表情は変わらない。
「帰る必要が無い。だから帰らない。それ以上何か問題点があるか?」
突き放すような問いかけに答えを返せる者は無く、生徒達の去った生徒会室で慧は作業を続ける。
「……帰れるうちに帰るべきだ。帰り路を無くしてからでは、遅い」
ぽつり、と慧は言った。プリントに視線を落としながら、その瞳は遥か遠くを見ていた。
「これ以上は増やさせない。継がせない。まだ猶予は在る。俺はまだ削れ切っていない」
意識を夢世界に向ければ、ぐるりと世界がめぐる感覚が全身に廻る。
再び戻った視界の先には生徒の名前が書かれた電子画面。そのうちの一つには、生徒が線路の方に向かっている映像が映っていた。
必死な表情で何かを追う姿。だがその先には何も無い。慧には見えない何かを、彼は必死に追っていた。
「堕ちるな。――に堕ちれば、俺は、俺たちは――……」
言葉の最後は音にならないまま、生徒会室の空気に溶けた。