真夏の蜃気楼〜薔薇の女王は誓いを捧ぐ〜
はらり、と花弁が落ちた。「――あら」
最初に声をあげたのは伏見原 花鳥だ。
生徒会室に置かれたソファに腰かけた彼女は、ローテーブルの中央に置かれた花瓶に手を伸ばす。
「薔薇は綺麗ね。根を断たれても、花弁が一枚散っても気高く見えるわ」
「……一枚散った程度で腰を折るほど、無覚悟に咲いたわけではないのでしょう」
花鳥の声に応えたのは紅羽だ。
生徒会長の椅子に座って書類に目を通しながら、何気ない口調で返したように見えたが、その声音はいつもに比べて固かった。
それを感じ取ったのか、花鳥の横に座っていた夜見宮 まゆらはクスリと小さく笑みを漏らす。
「無覚悟、なんて言葉を花に使う人を初めてだわ。でも――」
愛おしげに見えるその瞳の奥には、隠しきれない嗜虐心が覗いている。
猫がネズミを弄ぶように、白く細い指先が花弁を一枚減らした深紅の薔薇を撫でた。
「手折られてしまえば覚悟なんて無意味だと思わない?」
薔薇を持つ手に微かな力がこもる。
薔薇を愛する紅羽の事だ。惨めに手折られる様を見れば表情を歪めるだろう。
紅茶に口をつけながら、花鳥は心中でそう予測していた。
だが、紅羽の顔に浮かんだのは笑みだった。
「より強い力を持つ者の前でも、たやすく手折られはしないと思いますわ」
ちくりとまゆらの指先に痛みがはしる。薔薇から手を離せば、指の腹にほんの少し赤みが差していた。
「自ら仕掛けるためではなく、向けられた力と同等の痛みを返す。それが薔薇の強さでしょう?」
「しつれいしまーす! ……ってあれ、お取り込み中?」
元気よく扉を開け、室内に立ち込めるそこはかとない緊張感に気付いたのだろう。
宮下和香が言葉を尻すぼみにしていくと、紅羽は穏やかな笑みを浮かべて視線を映した。
「いいえ、大丈夫よ。何か用事かしら?」
「うんっ! あ、えっと、はいそうですクラスで帰省予定の人の申請書持ってきました…」
勢いよく頷いた後、ハッとした顔になり、真面目な表情を作って手に持った紙束を指しだす和香。
それはいかにも「教師に言葉づかいを注意されました」という様で、紅羽達の微笑みを誘う。
「あ、あれ……?」
「和香さん、他の方には意識しなくてはならないかもしれませんが、私に対して敬語は不要でしてよ」
きょとんとした顔で周りを見る和香にそう告げながらひとしきり笑った紅羽は、ふと表情を真面目なものに戻す。
切り替えはほんの一瞬で、それが出来る事こそが生徒会長たるゆえんだと改めて感じさせる。
「和香さん、まゆらさん、花鳥さん、よろしければ各学年に通達してくださる?」
三者を見回して異義が無いと判断すると、紅羽は再度口を開いた。
「最近夢世界の――現実で言えば、女子校学区にある教会付近で、『不審な影』の報告が相次いでますの。もちろん、他の場所でも」
レテではなく不審な影。つまりそれは生徒会長すら捕捉できない「何か」ということになる。
「不審な、影。ということはそれを捕えるのが任務という事かしら?」
花鳥の問いに紅羽は首を横に振った。
「いいえ。私のお願いはその逆。決して、その影を追わないでくださいまし」
きっと、それは叶わないのだけど。
その一言を、紅羽は最後まで言わなかった。
三人が退室した後、紅羽は深く背を背もたれに預けた。深く息を吐いて、少しぼんやりとした視線を天上に向ける。
「まだ立てる。まだ、私は、全てを散らしたわけではない」
それは自分に言い聞かせる様な言葉であり、此処にいない誰かに告げる様な言葉だった。
先程室内にいた生徒を、校舎にいる生徒達を思い描き、きつく瞳を閉じる。
閉じた瞼の向こうからでも、夏の夕日は痛いくらいに感じた。
欠けさせるわけにはいかない。失うわけにはいかない。
「まだ残っている。まだ戦える。決してたやすく手折られたりなどしませんわ。決して……」
握った右手を左手で包み込んで胸の前に当てる。祈りの様に良く似たその姿は、まるで右手に刻まれた何かを隠そうとする様にも見えた。